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自由とお金があるからこその自己責任

最近、自己責任という言葉をよく聞くようになった。何故だろう。

よく考えれば、自由がなければ自己責任などあり得ないはずだし、その自由を支えるには財力も必要になるはずだ。
つまり、自由と金があって初めて、自己責任と言う言葉が成立するのではないだろうか。

例えば、中国の農村へ行くと、農作業をしてヒマな時には酒を飲んで麻雀をやって居てそれなりに楽しそうではあるが、彼らにはそれ以外の選択はなかったのだと冷静に考えるとわかる。

中学中退とかも普通なので、知識もないし、お金もないので、他の仕事をするのは難しい。
彼らの自由の幅は狭く村から20km以上離れたことがないなんていう人にも会ったことがあるし、そもそも、日本のように手厚い社会保障はなく高度な医療を受けることもできないので生きる自由も怪しい。

そういった彼らが自己責任かと言えば、日本の今の基準で考えると誰もそうは言えないだろう。
それは何故かといえば、彼らにはその暮らし方以外の選択肢が事実上存在しないからだ。

つまり、自らの状況を自らが選択できない人に対して自己責任とは言えないし、恐らくは昔に生きた人々の大多数がこのパターンだったので、諦めるだけで自己責任など誰も言わなかった。
ただ、「どうしょうもない」の一言だったのに違いない。

そう考えると、自己責任と言う言葉がこれほど出てくる理由は、現代日本が自由で豊かな社会になったから、ということに他ならない。
そもそも、中国の村の人は、ビザがないし航空券を買う金もないので、最初から外国へ行く自由など存在しない。

個人がかなりの程度自分の行動を選択をできる社会を築いてしまった故に……
何故わざわざその選択をするのか? という問いかけこそ、現代の日本で声高に叫ばれる自己責任の正体なのだろう。

自己責任という言葉の出現は、日本が実に近代的な国家になったという証明なのだ。

自由を支える財力が崩壊する30年後の日本。

歴史のあだ花とならずに、未だこの選択の幅を保って「自己責任」と言えているだろうか?
それとも、「どうしょうもない」に変わってしまうのか。